発足
広島支部が北九州市から東に約213km 離れた広島の地に産声をあげたのが昭和33年12月14日だった。33年といえば第1回卒業生が巣立った昭和24 年からちょうど10 年目。広島県全域を対象にした広島支部の組織化に立ち上がったのは昭和32 年に商学部を卒業し、広島市内の企業に就職した片岡義隆と佐賀県出身で広島に居を移したばかりの松尾尚紀の同級生コンビだった。

「33 年の春、小倉に出掛けた帰りに大学本部に立ち寄ったところ、厚生課の人から『広島県にはまだ同窓会組織がない。設立を働きかけてくれないか』と依頼された。帰広後、すぐに届いた卒業生名簿を手に同窓生探しを始めた」と片岡義隆は振り返る。最初に接触したのが、第1 回卒業生で当時、中学校の教師をしていた伊原八郎(24・専米)と同じく教師の木原幹男(31・米)。「その年の夏ごろ、消息のわかった先輩らに相談。4~5人が集まって広島市内で準備会を開き、『とにかく立ち上げよう』ということになった。同窓生が広島の地で集えることができる、と思うだけでわくわくした」と松尾尚紀は述懐する。

その広島支部の設立総会は年も押し迫った12月14日であった。場所は広島市内の比治山遊園。総会に出席したのは県内各地で活躍していた教師や公務員、サラリーマンら約19人。支部長には伊原八郎が就任。副支部長は木原幹男、幹事は丸井晃二朗(31・米)、松尾尚紀、会計には片岡義隆が就いた。この5 人が中心となって県内に在住する同窓生に連絡し、参加を呼びかけて今日の広島支部の基盤を作った。支部結成41 年後の現在(平成11年10月)も、支部活動を陰になり日なたになって支え、総会などの会合には現在も積極参加する先駆者たちである。

初代支部長の伊原八郎は当時をこう振り返る。
「大学の校歌は同級生が作詞したし、逍遙歌も同様に作詞・作曲した。自分たちの手で大学を作り上げたという気持ちが強く、私たち1回生にとって大学への思いは格別だった。だが、米英科200 人のクラスメートのうち、広島県出身者はたった私1人。卒業後広島に帰って教職に就いたが、当時の広島では大学の知名度も低くて、どこに同窓生がいるかも分からなかった。設立総会の時、集まった後輩の面々に会うと懐かしさというか、母校を同じくする仲間として何とも言えない思いがこみ上げてきたことを鮮明に記憶している。集まるのが楽しかったし、同窓会は北九大卒業生としてのよりどころです」

昭和30年から40年代
翌34年に開いた総会からは開催日を5月の第2日曜日の母の日に決めた。なぜ母の日にしたのか。当時、会計担当として事務局を切り回していた片岡義隆は「別に母の日にこだわったわけではなかった。同窓会を活性化するには新卒者ら若手の参加が必要。卒業して社会に出た後輩たちが気軽に支部活動に参加してもらえるには、社会生活にも、職場にも慣れたこの時期が最もいいのではないかという単純な発想からだった」と話す。会場も当初は設立総会の開かれた比治山遊園に決めていた。
37年5月13日に開かれた第4回総会では役員が交替した。支部長に片岡義隆、副支部長に古本憲治(34・商)が就任。幹事に西信明(33・商)と大西道生(36・商)、会計には三浦俊男(34・商)と卒業5 年以内の若手が同窓会をリードする体制になった。総会の出席者は広島市内だけでなく呉、福山地区など県内各地から30人近くにのぼった。片岡義隆支部長はあいさつで、「総会は毎年1 回は必ず開きたい」と提案。広島支部はしっかりと根を張り始めた。
40年代に入ると卒業生も増え、地元出身者に加えて、官庁や全国規模の大手企業に就職して「支店経済の町」広島に転勤する「支店会員」も増加。県内に住む会員は推定300 人以上になり、同窓生の交流、親睦を深める場としての同窓会の存在価値も一段と高まっていく。
42年5月8日に開かれた総会で役員が改選され、支部長には西信明、幹事に古本憲治、三浦俊男、会計に大西道生が就いた。西支部長は「広島には官公庁や企業の出先機関や支店が多く、同窓生の異動が激しく、消息をつかむのに苦慮しているが、もっと連絡を密にし、みんなが参加してよかったという総会にしたい」と、支店会員 の支部活動への参加に力を入れる方針を述べている。
46年の総会は6月27日に広島市内のビアホールで開かれ、40数人の参加があり、盛会であった。西支部長時代には、広島で開かれるスポーツ大会に後輩の運動部員が参加する時には支部を挙げて応援に行ったり、差し入れをするなどして激励した。「後輩との接触もいい思い出だった」と大学時代は硬式庭球部に所属した西支部長ならではの発意だったようだ。
48年にはそれまで広島市内で開催されていた総会を広島県東部の福山地区の同窓生らの要望で福山市内で開くことになった。1月28日に開かれた総会は隣の岡山県支部との交歓総会の形をとり、両県支部から約30人が出席した。同窓会本部から田中美敏副会長が出席。また、ゲストに昭和29年から44年まで北九州大学で教鞭をとり、当時、岡山県の川崎医科大学教授を務められていた河上道生先生夫妻を迎えた。北九州大学時代は英語教育の第一人者として軽妙なタッチで実務英語を教えておられた河上先生の米国研修報告の講話に、参加した同窓生は大学時代に返った気持ちで聞き入った。この総会に出席した事務局の大西道生は福山支部の会員に、県東部への支部設置を助言。福山地区のメンバーたちは翌49年から年1回、親睦会の開催を決め、これが62 年の福山支部結成につながるきっかけとなった。
呉支部の設立
若手の積極参加などで活性化した支部活動も50年代に入って停滞した。こうした状況下で呉地区のメンバーらが「呉地区の同窓生だけでも会合を開き、同窓の輪を広げよう」と呉支部の設立を同窓会本部に申請したのが54年5月。6月10 日に広島支部から独立する形で呉支部の発会式をした。初代支部長には37年から5年間広島支部長を務めた片岡義隆を選んだ。
「広島出身の卒業生が急激に増え、県全体をカバーする広島支部の会員が増える中で、支部活動を持続的に活性化させるには支部を当時の衆議院の選挙区である広島地区、呉地区、福山地区の3支部体制にするのが理想と私自身思っていた。集まりやすい場所で気軽に集まろう、というのが呉支部発足の狙いだった」
と片岡は結成の経緯を説明する。
一方で、活動が停滞化した「広島支部の灯を消すまい」と片岡が思いついたのが有志による広島支部と呉支部との「支部対抗ゴルフコンペ」。第1回は54年、場所は島根県の金城カントリークラブ。両支部から4組16人が参加。広島と呉の支部対抗で腕を競った。幹事は両支部の交代。2回目の山口県・美和カントリークラブでのコンペは広島支部が世話をした。その両支部対抗のゴルフコンペは以降、毎年続き、平成11年にも11月6日に東広島市の志和カントリークラブで開き、6組で親善を深めた。
「発足当時はまだゴルフをする人は限られており、ゴルフが適当かどうか多少気にはなったが、何かしないといけないとの思いで提唱した」
と片岡義隆が振り返る。
コンペには欠かさず出席する呉支部の末永義紀元支部長(38・米)は「対抗戦はいつも広島支部の勝ち。でも両支部会員の親善を深める交流になっている」と話し、広島支部の世話役を務めた古本憲治も「ここ数年は6組くらいの参加があり、楽しい交流の場になっている」と言う。
対抗戦の優勝カップは今も勝利支部に贈られている。
広島支部、再度の立ち上げ
停滞していた広島支部の再度の立ち上げが動き始めたのが56 年。山本準治(47・済)と金本善行(50・営)は、呉支部の総会に顔を出した時に、広島支部の存在を知り、「何とか活動を再開出来ないものか」と木原幹男や中村正気(41・商)らに持ちかけ、同窓会名簿を頼りに、電話で消息をとりあった。山本、金本は「広島市内には知り合いも少なく、人の輪を広げていくためにも同窓会のネットを構築したかった」と広島支部活動の再開に奔走した理由を述べる。
その年の12月12日、市内の「もみじ会館」に伊原八郎や木原幹男、三浦從道(26・専中)、松尾尚紀、古本憲治、本部からも重枝組織局長、村山支部対策部長ら18人が集まり、支部活動の再開を決めた。翌57年6月6日、広島国際ホテルで開かれた再開後初の総会には木原幹男、丸井晃二朗、三浦從道、松尾尚紀ら結成当時の幹部が顔をそろえたほか、竹縄友行(33・中)、久田見尚(33・商)や中本秀人(42・商)、上野寛(50・営)らも出席。総勢55人が一堂に集い、支部の再開を祝った。支部長に初代支部長で長老格の伊原八郎、副支部長に木原幹男を選出した。この支部活動の再開に際して、同窓生の消息探しや会合場所の設定、連絡役など活動再開に奔走した山本、金本は以降、平成11年総会までの18年間にわたって、仕事の合間を縫って事務方を務め、支部活動を陰で支えた。2 人のよき相談役となった木原幹男は「今の支部活動は2 人の裏方の努力なしにはあり得なかった」とその労をたたえる。

586年7月23日、ホテルシルクプラザで開れた総会ではワンポイントリリーフ役を務めた伊原八郎に替わって、新支部長に三浦從道を選んだ。再開広島支部の活性化の期待を担って登場した三浦は次々と新しい活動方針を打ち出した。その一つが新年会。59 年1 月17 日、新八丁堀会館で開かれた新年会には伊原八郎、木原幹男、石川公紀(34 ・中)、三谷嘉広(38 ・商)、竹崎亘(38 ・商)、広瀬葵(40・商)ら44人が出席。盛大に新年を祝い、年2 回、会合を開くという体制をスタートさせた。さらに翌60年1月19日、広島国際ホテルで開催された新年会では、同窓生による講話を取り入れ、初回は木原幹男が「ニューメディア時代」を、広島の女子教育の名門校である広島女学院中学校教諭の黒瀬真一郎(39・米)は「教師生活20年にあたり思うこと」をテーマに話した。その年の10月5日の支部総会では、中国新聞経済部次長だった沖田康尚(40・米)が「変わる広島財界地図」のテーマで経済取材の裏話を織りまぜながら広島経済の動きを解説した。この同窓生による講話は講師の選定難などからその後は中断されている。

三水会の発足
三浦支部長が62年6月の総会で提案したのが毎月第三水曜日に定期的に集まる「三水会」。東京支部が行っている月例会「三水会」をモデルにしたもので、会合場所を同窓生が経営する「もつ鍋博多」に決めた。集まる同窓生は毎回5~6人から10 人前後。酒をくみ交わしながら、大学時代の思い出や広島での生活情報、仕事の話などに花を咲かせた。この三水会はその後、会場を変えながら開かれた。平成10年11月から再開した三水会は、市内中心部の中華料理店「夜来香」を会合の場に定めて開催。毎回10人から15人が参加し、午後6時半から約2時間にわたって、親交を深め、12年からはビアホール「アサヒビアケラー」に場所を変えた。
支店の町・広島で開く三水会の最大の特徴は、転勤などで広島に赴任した同窓生が気軽にぶらっと参加。初めての広島の土地や人脈などを地場の同窓生から直接聞けることだ。白水和博(49 ・国文)は「土地鑑もなく、知人もいない広島に赴任して、母校を同じくする同窓会の仲間は心強い存在。地元会員から広島の特性などを聞き、私たちは外部から見た広島を語る。双方にとってメリットは大きい」と言い、豊田徹(49・済)も「同窓生という気楽な出会いから幅広い友だちの輪が広島の地にできた」と喜ぶ。ちなみに平成10年から11年6月までの三水会に出席した会員33人のうち13人は支店会員だった。
福山支部の発足、3支部体制へ
62年1月には福山支部が広島支部から独立して全国40番目の同窓会支部としてスタートした。15日に福山ニューキャッスルホテルで開催された福山支部結成総会には本部から河野徳治郎副会長、広島支部からは三浦從道支部長らが出席。初代支部長には準備委員会の新谷義弘(33・米)が選出された。三浦広島支部長は「支部結成おめでとう。広島には呉支部もあり、親戚でもあり、兄弟である福山支部が結成されたことを心から喜び合いたい。経済圈も同じで、同じ釜の飯を食い、青春時代に人生観、世界観を話し合ってきた仲間の支部が誕生したのがうれしくてたまりません」と祝辞を述べ、一体となって広島県の同窓会が発展するようにエールを送った。福山支部の結成を広島支部の副支部長としてサポートしていた木原幹男は「広島支部結成の当初は山陽新幹線もなく、福山地区から駆けつけてくる仲間は長時間汽車に乗って、広島に来ており、大変だった。福山市役所に勤める方や教員の方々が中心になって、49年から年1回の親睦会を開き、支部結成の準備を進めておられた。私も仕事の関係で月1回、福山に出張する関係から、人脈もあり、結成に骨を折らせていただいただけにうれしかった」と振り返る。
この福山支部の結成で広島県の支部は広島、呉、福山の3支部体制となった。
現在
平成元年7月14日の総会で新支部長に中村正気、副支部長に田川哲章(48・営)の若手コンビがスタートした。脱サラでレストランなどを経営する中村は持ち前の行動力で、同窓会の改革に奔走し、3年後の平成4 年に先輩の大西道生に支部長をバトンタッチするが、その後も総会の会場の提供をする傍ら、趣味のマリンバやクラリネットなどを手に友人の脇田成康(41・米)のピアノとコンビを組んで楽器演奏を引き受け、三水会や定期総会、ビアパーティーなどを盛り上げている。
5年7月17日の総会には大学から中谷哲郎学長と本部から仰木忠幹・新会長が出席。大西支部長のあいさつのあと、中谷学長は大学の近況を話された。この年の9 月1 日、同窓生に訃報が届いた。支部活動再開後の58年から平成元年までの6年間にわたって支部長を務め、支部活動の活性化に全力を投入、多彩な行事を実行に移した三浦從道・元支部長が急逝された。温厚な人柄で、面倒見がよく、同窓生を公私にわたって世話をされ、再開当初には財政面で支部活動を支えられただけに、惜しまれる早い別れだった。

8年11月16日、ホテルセンチュリー21 広島で開かれた総会には田中愼一郎学長、藤井健一同窓会長が出席し、35人の同窓生が参加した。この席で大西支部長に代わって新支部長に三浦賢彬(36・商)が選任された。三浦支部長は故三浦從道・元支部長の実弟で、兄弟支部長の誕生となった。三浦賢彬新支部長はあいさつで改めて支部活動の活性化を訴え、1年後の総会では女性会員も含めて50 人以上の出席の目標を掲げた。翌年の9年10月25日の総会に田川哲章副支部長や事務局の努力が奏功、56人の会員が出席した。特筆されるのは女性会員6人の参加があったこと。田川副支部長は「特に若い世代の参加に照準を当てた。女性会員についても、友だちが友だちを紹介し、会合には一緒に参加するように働きかけることで、参加の輪を広げたかった。初年度に総会参加者の目標をクリアできたので、自信もわいた」と胸をなで下ろしていた。
10年から新たに夏の行事として納涼ビアパーティーを企画するとともに休眠状態にあった三水会も会場を変えて再スタートさせた。ビアパーティーは会場を中村正気が経営するレストラン「マルコポール」に定め、初回は7月25日夕方に開催した。広島県立美術館の一角にあるレストランからは広島の名園「縮景園」が見渡せるとあって集まった43人の同窓生は大喜び。冷たいビールを飲みながら、大学時代や近況の報告などに泡を飛ばし、若手は自己紹介では軽妙な言い回しで喝采を浴びていた。アトラクションとして恒例の中村正気、脇田成康のコンビによる軽音楽の演奏が場を盛り上げた。翌11年7月23日に開いた2回目のビアパーティーには47人が参加し、夜遅くまで冷たいビールの味に舌鼓を打った。